[第3回] あずみの思い出を気ままに振り返っています。
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『あずみ』の死生観と思想2
今回はまた、『あずみ』の死生観について。
暗殺者として月斎に育てられている子供たちは、やはり厳しい死生観を持っている。
第一話で、試練と称してこの手練れの子供たちを殺し合わせて、半分に減らしてしまったのは、さすがに悪手なのではないかと思っていたのだが、死を怖がらなくなるという効果があった。
うっかり腹を刺されて瀕死のながらは、死を前に仲間たちを思い浮かべて、笑顔さえ見せる。
これは決して強がりなんかではないだろう。
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あずみも厳しい戦いの前にはよく死んでいった仲間たち(というか”なち”はあずみが殺したんだが笑)を思い出して、その鼓舞する場面がたびたび出てくる。
これは結構自分でも思い当たるところがあって、大好きだった人が死んでしまうと、死に対してそこまで拒否感を抱かなくなるというか、ちょっと死んでもいいかなという気にさえなったりもする。悲しくてやりきれなくて死にたいというよりは、”ながら”が言っているように会えるかもしれないという思いが出てくるのだ。
いや、自分は本気で会えるとは思ってるわけでもないか。ただ、それでもその人たちと同じ状態になれるというのは、なにか居心地は良いかもしれないという気になる。そのうえ、もしかすると、なにか会うじゃないけど、そんな感覚に近い何かが起こるかもしれないという、よくわからない期待感はある。
それからもう一つ。大好きだった人の死を経験すると、現実がそこまで絶対ではないということに気が付く。
どういうことかというと、あれだけはっきり自分の前に存在していた人が亡くなる。跡形もなく消える。まあ、骨は残るんだけど。その人は自分の記憶の中にしかいなくなる。つまり現実の存在すら、想像の中のものとさほど違いはないとわかる。違いは現実感があるというだけ。その虚しさったらない。
単に現実というのは、現実感があってちょっと長いというだけのものだ。もし、現実がもっと短く、夢のほうが長かったとしたら、夢のほうが重要なものとして扱われてもおかしくない。現実はめちゃくちゃリアリティがあって長い夢と置き換えることもできるし、夢は現実を薄めて短くしたものともいえる。そこに、はっきりした境はない、そんなふうに虚しい気持ちで現実を眺めてしまう。
こういう風に、夢と現実がひと続きのように、生と死もひと続きなのだ。死は絶対に避けなきゃならないものではなく、相反するものでもない。ちゃんとつながっていて、そこに行くのは早いか遅いかだけ、必ずたどり着く家のようなものかもしれない。
ふつうにのほほんと生きていても、こんなふうに思ったりもしている。
ましてや、暗殺者ともなれば、死を恐れないというのは、絶対の資質だろう。
……つづく
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『あずみ』
- 著者: 小山ゆう
- 出版社: 小学館
- 連載誌/レーベル: ビッグコミックスペリオール / ビッグコミックス
- 連載期間: 1994年 – 2008年
- 全巻数: 全48巻(文庫版は全24巻)
- ジャンル: アクション漫画・時代漫画
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